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野路の玉川古跡」について
 

中世において、東海道と東山道の分岐点で戦略上でも重要な地にあり、宿駅として重要な位置を占めた。室町時代には草津が交通の要衝となり、しだいに江戸時代にその地位を草津宿に譲った。
 諸国六玉川の一つ「野路の玉川」は近江の萩の名所であったことから「萩の玉川」とも呼ばれ、平安・鎌倉時代の紀行文・和歌にしばしば登場した。弁天池と十禅寺川の間に水の湧き出る名泉:玉川(小池)があったが、現在はあたり一面に咲き匂う萩のみが面影を残している。
 「玉川」の名称については、聖徳太子が仏法興隆のため御幸された時に、馬に水を呑ませるために笏で萩原を穿つと、たちまち清水湧きいでて、玉の姿をなせしゆえとか。
 また、王城の地から一日行程の近距離にあるため、古今の有名無名文人墨客が来遊、詩歌に興じていた。古い歴史にはぐくまれた古跡なるため、多くの絵図・紀行・詩歌・伝説にめぐまれ、江戸時代にまた多くの浮世絵師たちは作画を競った。「近江むかし話」(滋賀県社会福祉協議会・老人クラブ連合会共編)にも玉川の水があまりにもきれいであったことが言い伝えられている程である。
                滋賀県百科事典(大和書房)より

       

< 和歌 >

千載集「 あすもこん 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり」
源 俊頼

新拾遺集「 さをしかの しからむ萩の秋見へて 月も色なる 野路の玉川」
仲光